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宗教トラブル110番
Q&A しのびよるカルト
110番シリーズ
14
民事法研究会 1999.4
山口 広
∥著
滝本 太郎
∥著
紀藤 正樹
∥著
(1人)
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貸出数: 0冊
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竜王図書館 <1010839569>
貸出可 / 書庫一般書 / / /165/シ/ / 帯出可
詳細情報
ISBN
4-89628-033-4
書名ヨミ
シュウキョウ トラブル ヒャクトオバン
副書名ヨミ
キュー アンド エー
副書名原綴
Q&A
副書名ヨミ
シノビヨル カルト
著者ヨミ
ヤマグチ ヒロシ
著者ヨミ
タキモト タロウ
著者ヨミ
キトウ マサキ
叢書名ヨミ
ヒャクトオバン シリーズ
分類記号
165.9
価格
¥1800
出版者ヨミ
ミンジホウ ケンキュウカイ
大きさ
19cm
ページ数
307p
一般件名
宗教団体 法令
抄録
統一教会、オウム真理教など、破壊的カルトや宗教名目による消費者被害の現状と対応を、救済にあたってきた弁護士がQ&Aで解説。マインド・コントロール、脱会についてなどをわかりやすく説明する。
著者紹介
1949年生まれ。東京大学法学部卒業。弁護士(第二東京弁護士会所属)。
著者紹介
1957年生まれ。早稲田大学卒業。弁護士(横浜弁護士会所属)。
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全ては正しく、全ては間違っている
(2015/04/03)
ブルーツ・リー/飯能市立図書館
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宗教と弁護士って、相性悪いなあ、と思った。
そもそも、カルト宗教に入信した人が身近に居たら、
その集団が合法的か非合法活動を行っているかどうかなんて関係なく、
単純に脱会させたいと思うのが人情というものだと思います。
しかし、弁護士はあくまで、法律にのっとって行動する人たち。
そのカルト宗教が触法行為を行っていなければ、
法律に訴えることはできないわけで。
違法かどうかはあんまり関係ないのでは…?
カルト宗教に入信しちゃった人を脱会するには、結局どうすりゃいいのか。
というか、カルト宗教の側も、違法とみなされないように、
触法行為にならないように布教を進めるので、
それこそオウムとか、テロを起こすレベルのカルト宗教でない限り、
なかなか法律の範囲内では救えない人も多いのではないでしょうか。
そもそも、憲法に宗教の自由、布教の自由が明記されている段階で、
宗教に入りたくない!という人の立場は弱いと思われます。
「信教の自由」というからには、
「宗教を信じたい人が信じる自由」を保障するだけではなくて、
「宗教を信じたくない人」に強引な布教をすること自体、憲法に違反している気もするのですが…。
どうも宗教を信じて布教したい人の自由ばかりが優先されてしまっている気はしています。
それはそうとして、この宗教を扱った本を読んで、人生を、人間社会についても考えてしまいました。
つまり、カルト宗教というのは、誰か特定の人物や集団や神「のみ」しか信じなくなるから起こる現象なのではないかと。
これは何も宗教に限ったことではなくて、すべての社会がそうであると思われます。
私は学問に身をささげている者ですが、
学問とて、それのみを信じなくてもよいのではないかと。
学問の唯一の真理を求める動きって、唯一のものを信じるという意味においては、
宗教とも通じる部分があるように思います。
唯一ではなくてもいいのでは?
「すべての物は正しく、しかも同時に全てのものが間違っている」
という姿勢こそ、カルト宗教や唯一のもののみを信じる状態からの脱出につながると思います。
学問の言葉で言えば、「共感と批判的な精神」ということ。
共感するだけでは学問になりませんし、しかし批判のみでも学問にならない。
この姿勢は、学問ではなく、宗教にも通じるのではないでしょうか。
絶対的に正しく、絶対的に間違っている存在。
として、宗教家を見るならば、カルト宗教の教祖を、ただ単に絶対的な存在とは見なくなり、
宗教に関するトラブル自体も減っていくのではないか、と考えました。
個人的な学問に対する姿勢をも考えさせられた一冊でした。
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(c) 甲斐市立図書館
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ブルーツ・リー/飯能市立図書館
そもそも、カルト宗教に入信した人が身近に居たら、
その集団が合法的か非合法活動を行っているかどうかなんて関係なく、
単純に脱会させたいと思うのが人情というものだと思います。
しかし、弁護士はあくまで、法律にのっとって行動する人たち。
そのカルト宗教が触法行為を行っていなければ、
法律に訴えることはできないわけで。
違法かどうかはあんまり関係ないのでは…?
カルト宗教に入信しちゃった人を脱会するには、結局どうすりゃいいのか。
というか、カルト宗教の側も、違法とみなされないように、
触法行為にならないように布教を進めるので、
それこそオウムとか、テロを起こすレベルのカルト宗教でない限り、
なかなか法律の範囲内では救えない人も多いのではないでしょうか。
そもそも、憲法に宗教の自由、布教の自由が明記されている段階で、
宗教に入りたくない!という人の立場は弱いと思われます。
「信教の自由」というからには、
「宗教を信じたい人が信じる自由」を保障するだけではなくて、
「宗教を信じたくない人」に強引な布教をすること自体、憲法に違反している気もするのですが…。
どうも宗教を信じて布教したい人の自由ばかりが優先されてしまっている気はしています。
それはそうとして、この宗教を扱った本を読んで、人生を、人間社会についても考えてしまいました。
つまり、カルト宗教というのは、誰か特定の人物や集団や神「のみ」しか信じなくなるから起こる現象なのではないかと。
これは何も宗教に限ったことではなくて、すべての社会がそうであると思われます。
私は学問に身をささげている者ですが、
学問とて、それのみを信じなくてもよいのではないかと。
学問の唯一の真理を求める動きって、唯一のものを信じるという意味においては、
宗教とも通じる部分があるように思います。
唯一ではなくてもいいのでは?
「すべての物は正しく、しかも同時に全てのものが間違っている」
という姿勢こそ、カルト宗教や唯一のもののみを信じる状態からの脱出につながると思います。
学問の言葉で言えば、「共感と批判的な精神」ということ。
共感するだけでは学問になりませんし、しかし批判のみでも学問にならない。
この姿勢は、学問ではなく、宗教にも通じるのではないでしょうか。
絶対的に正しく、絶対的に間違っている存在。
として、宗教家を見るならば、カルト宗教の教祖を、ただ単に絶対的な存在とは見なくなり、
宗教に関するトラブル自体も減っていくのではないか、と考えました。
個人的な学問に対する姿勢をも考えさせられた一冊でした。