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石橋湛山の65日
東洋経済新報社 2021.4
保阪 正康
∥著
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竜王図書館 <1012429351>
貸出可 / 2F棚18/Y300-E / /Y/312/ホ/ / 帯出可
詳細情報
ISBN
4-492-06192-3
13桁ISBN
978-4-492-06192-3
書名ヨミ
イシバシ タンザン ノ ロクジュウゴニチ
著者ヨミ
ホサカ マサヤス
分類記号
312.1
価格
¥1800
出版者ヨミ
トウヨウ ケイザイ シンポウシャ
大きさ
20cm
ページ数
333p
個人件名
石橋 湛山
一般件名
日本 政治 行政
抄録
昭和31年、わずか65日で終わった石橋湛山政権。反骨の言論人が、戦後、政治家の道を歩み、首相の座を降りるまでの激動の保守政治の史実を克明に描き、短命に終わった「まぼろしの政権」が日本人に投げかけた謎に迫る。
著者紹介
1939年札幌市生まれ。同志社大学文学部卒業。ノンフィクション作家。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。「ナショナリズムの昭和」で和辻哲郎文化賞を受賞。
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在位はたった65日間であったが、後世の範となる第55代内閣総理大臣 石橋湛山のおはなし
(2021/10/19)
中務光人/池田市立図書館
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著者は1939年生まれの著名なノンフィクション作家。
石橋湛山は 1884年(明治17年) 東京生まれで 第55代内閣総理大臣。日蓮宗僧侶の長男として生まれ、戦前・戦中は 東洋経済新報社に身をおくジャーナリストとして33年間活躍した後、戦後、政治家に転身した。
戦前・戦中の "挙国一致" の雰囲気・圧力の下でも、一貫して反ファシズムの平和主義を貫いた。
例えば、紹介されている 1921年の記事の要旨は「台湾・朝鮮・志那に対して、白人の真似をして彼等を圧迫しているから、彼等は憤慨しているのだ。態度を改め、同胞として処遇することを希望する。」
終戦直後、GHQ の着任時、既に石橋は英文経済誌を通して GHQ メンバーによく知られた存在で、GHQ の来訪・相談も多く、政府関係では 13の委員会に関係していたという。
このようなことから、自然と政界に身を置くようになり、第1次吉田茂内閣では、民間人として大蔵大臣に就任。しかし、1947年から約4年間、GHQ により公職追放となった。石橋の経歴・主張からは考えられないことであるが、GHQ の理不尽な要求は断固拒否するといった態度をとったことから、GHQ の一部の部署からは嫌われた為の処分だという。また吉田茂もこれをかばうことはなかったとのこと。
処分が明けて、鳩山内閣では通産大臣を務めたのち、鳩山の引退を受けて総裁選が行われる。この前年に、自由党と日本民主党が自由民主党として1つになっていたが、この時の総裁選の決選投票で岸信介に7票差で勝利し、自民党総裁 → 内閣総理大臣に選ばれた。しかし、多忙がたたったのか、総裁選の約40日後に、かぜ症状から肺炎・神経症状の出現があり、一時は言葉も聞き取りにくいほどになり、「政治の空白」をよしとしない石橋は自ら辞任を決意し、後任を岸信介外相に譲った。その後、3ヵ月も経たないうちに、退院し言葉も普通になったということなので、結果的には、譲らなくてもよかったのかも知れない。
最後に著者は、「石橋は、首相という存在は日頃から思想や哲学を明確にしておくことの重要性を教えた。・・・首相を目ざす政治家は石橋を範とせよ。と強調しておきたい。」と結んでいる。
石橋湛山についてのノンフィクションであるが、石橋の生き様だけでなく、その頃の政治にまつわる人間関係, GHQ との関係などもよく理解できた。
石橋が総理大臣になることができたのは、豊富な知識、私欲がない、保守・リベラルどちらからも遠くない立ち位置などがあったと思うが、著者も思っているように、(歴史の if になってしまうが) もう少し長く総理大臣を続けてもらっていたら、今の日本の政治も少しは違ったものになったかもと残念な気持ちになる。
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中務光人/池田市立図書館
石橋湛山は 1884年(明治17年) 東京生まれで 第55代内閣総理大臣。日蓮宗僧侶の長男として生まれ、戦前・戦中は 東洋経済新報社に身をおくジャーナリストとして33年間活躍した後、戦後、政治家に転身した。
戦前・戦中の "挙国一致" の雰囲気・圧力の下でも、一貫して反ファシズムの平和主義を貫いた。
例えば、紹介されている 1921年の記事の要旨は「台湾・朝鮮・志那に対して、白人の真似をして彼等を圧迫しているから、彼等は憤慨しているのだ。態度を改め、同胞として処遇することを希望する。」
終戦直後、GHQ の着任時、既に石橋は英文経済誌を通して GHQ メンバーによく知られた存在で、GHQ の来訪・相談も多く、政府関係では 13の委員会に関係していたという。
このようなことから、自然と政界に身を置くようになり、第1次吉田茂内閣では、民間人として大蔵大臣に就任。しかし、1947年から約4年間、GHQ により公職追放となった。石橋の経歴・主張からは考えられないことであるが、GHQ の理不尽な要求は断固拒否するといった態度をとったことから、GHQ の一部の部署からは嫌われた為の処分だという。また吉田茂もこれをかばうことはなかったとのこと。
処分が明けて、鳩山内閣では通産大臣を務めたのち、鳩山の引退を受けて総裁選が行われる。この前年に、自由党と日本民主党が自由民主党として1つになっていたが、この時の総裁選の決選投票で岸信介に7票差で勝利し、自民党総裁 → 内閣総理大臣に選ばれた。しかし、多忙がたたったのか、総裁選の約40日後に、かぜ症状から肺炎・神経症状の出現があり、一時は言葉も聞き取りにくいほどになり、「政治の空白」をよしとしない石橋は自ら辞任を決意し、後任を岸信介外相に譲った。その後、3ヵ月も経たないうちに、退院し言葉も普通になったということなので、結果的には、譲らなくてもよかったのかも知れない。
最後に著者は、「石橋は、首相という存在は日頃から思想や哲学を明確にしておくことの重要性を教えた。・・・首相を目ざす政治家は石橋を範とせよ。と強調しておきたい。」と結んでいる。
石橋湛山についてのノンフィクションであるが、石橋の生き様だけでなく、その頃の政治にまつわる人間関係, GHQ との関係などもよく理解できた。
石橋が総理大臣になることができたのは、豊富な知識、私欲がない、保守・リベラルどちらからも遠くない立ち位置などがあったと思うが、著者も思っているように、(歴史の if になってしまうが) もう少し長く総理大臣を続けてもらっていたら、今の日本の政治も少しは違ったものになったかもと残念な気持ちになる。