山県大弐について

 山県大弐は江戸時代に活躍した人物です。強い正義感を持った思想家で、また天文学や医学にも精通した江戸時代中ごろを代表する大学者です。
 山県大弐は享保10年(1725)篠原村六本柳(甲斐市篠原)に生まれました。幼い頃から勉強をよくし、性格は真面目であったといわれています。
 27才のとき、江戸(東京都新宿区四谷)へ出て医者をしながら人々に学問を教えはじめました。
 一時期、岩槻藩主(埼玉県さいたま市)大岡忠光の家臣として勝浦代官(千葉県勝浦市)や岩槻藩の医師をしていました。
 その後、江戸八丁堀長沢町(東京都中央区八丁堀3丁目)で塾を開き、多くの生徒に医学・儒学・兵学などいろいろな学問を教えていました。
 明和3年(1766)に塾での講義のときに実際にある城など幕府にとって重要な場所を使って兵学を教えたりしたことがきっかけで捕えられ処罰されました。(明和事件)
 当時は、罪を犯した人と関(かか)わりがあっただけで罰せられる(連座)ことがあったため、大弐の功績を伝えていく人がなく、次第に世の中から忘れられていきました。
 明治時代になり実績が認められ、生きていたときの功績に対して正四位という位が贈られ、また、大正時代には山県大弐を祭神とした山県神社が創立されました。
 宝暦9年(1759)に書かれた『柳子新論(りゅうししんろん)』は山県大弐の代表する著書で、政治や経済、身分等について13の項目に分け書かれています。
 ○世の中の秩序はきちんとすべきである。しかしあまりきっちりと作りすぎるとひずみが出てそこに不正が入り込みやすくなる。物事や人間には自然な部分があって良い。
 ○天に太陽は二つ無い。だから上に立つ人は二人いてはいけない。
 ○本来人には身分の区別は無いが、才能や職業によって必然的に色々な区分が出てくる。大事なのは人間同士がお互いに敬う気持ちを持つことである。
 この『柳子新論』は幕末に活躍した吉田松陰にも影響を与えたといわれています。
 この他にも、西洋の天文学を理解し、多くの人に分かりやすく地球や惑星のことを解説した『天経発蒙(てんぎょうはつもう)』といった本も書いています。
 山県大弐が高く評価されるところは、時の常識や風潮に影響されず、政治や学問など物の本質を見極め、大事な事をしっかりと考えていく事を論じ、実践したことです。

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