黄梅院について

 黄梅院は、武田信玄と正室三条夫人の長女として天文12年(1543)に生まれました。(名不詳。法名「黄梅院殿水鳳瑞尼」或いは「黄梅院殿春林宗芳大禅定尼」)
 当時、信玄は信濃国(長野県)へ侵攻していたため、背後から攻め込まれないよう隣国の今川義元(駿河国:静岡県)・北条氏康(相模国:神奈川県)との間に三国同盟を結び、同盟をより強くするために北条氏康の嫡男氏政に長女黄梅院を嫁がせることとし、天文22年(1553)に婚約が成立し、翌年、天文23年(1554)に12歳の若さで氏政の正室として輿入れしました。
 信玄は黄梅院に深い愛情があったようで、北条家へ輿入れの際に供として1万人もの人数を伴わせるほか、黄梅院が病気や懐妊した際には富士御室浅間神社(富士河口湖町)へ平癒・安産祈願をおこなっています。
 結婚後、夫婦間は良好だったようで、嫡男北条氏直や氏房など4人の子供にも恵まれ幸せな歳月を過ごしていましたが、永禄8年(1565)に今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると、永禄11年(1568)信玄が今川領内に侵攻したことにより三国の同盟は破棄となりました。今川家に娘を嫁がせていた北条氏康はその報復として黄梅院と氏政とを離縁させ、黄梅院は甲府へ返されてしまいました。
 黄梅院はその心労のせいか翌永禄12年(1569)27歳の若さで亡くなってしまいます。娘の死を悲しんだ信玄は、大泉寺(甲府市)に南湖郷(南アルプス市)領を寄進し、長女のために寺院を建立し菩提を弔うよう命じ、甲斐市龍地に黄梅院が建立されました。
 また、武田・北条両氏が再び同盟を結んだときには、氏政は亡くなった夫人のために元亀2年(1571)北条氏の菩提寺であった早雲寺境内に黄梅院を建立させたといわれます。黄梅院は明治時代に廃寺となり往時を偲ぶことはできませんが、その跡に五輪塔や石造物があり、黄梅院跡は甲斐市の史跡として指定されています。

※黄梅院の本尊であったと伝えられている子安地蔵(市指定文化財)は黄梅院跡の近くにある地蔵院に安置されています。

図書館において黄梅院関連資料を閲覧することができます。

貴重な資料なため、館外貸出不可のものがございますが、どうぞご利用ください。

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