志田・宇津谷の技術集団

 志田・宇津谷には中世以降、大工や石工など技術集団が住んでいました。
 特に鋳物師の活躍は古く、初めてこの地の職人の名がみえるのは延慶元年(1308)で、廃仏毀釈により廃寺となった諏訪神社上社別当神宮寺(長野県諏訪市)に建立されていた五重塔の鉄露盤の一部(正式名称「諏訪大社上社本宮神宮寺五重塔鉄製伏鉢残闕」:長野県諏訪市博物館に展示)に「延慶元年戌申十一月 大工甲斐志田郷住人道西鋳之」と刻まれています。

諏訪大社上社本宮神宮寺五重塔鉄製伏鉢残闕
諏訪大社上社本宮神宮寺五重塔鉄製伏鉢残闕

 その後、延文4年(1359)に棲雲寺(又は「栖雲寺」:甲州市)の銅鐘を、貞治5年(1366)には放光寺(甲州市)の銅鐘を志田の鋳物師が鋳造し、双方とも「道金」という人物が作者で、『道』は志田鋳物師系統の通名として使われていたようです。また、作者は不明ですが、永昌院(山梨市)や久遠寺(身延町)の銅鐘も同じ作風であることから志田の鋳物師が作者であると考えられています。

放光寺銅鐘 陰刻

 宇津谷の鋳物師は文安5年(1448)に「大工大和権守宇津屋満吉」という鋳物師が向嶽寺(甲州市)の銅鐘を、また、宝徳2年(1450)には作者は明らかではありませんが鷹尾寺(廃寺:富士川町)・御崎明神(市川三郷町)の鰐口を鋳造しています(鰐口は現存していません)。
 志田と宇津谷は隣接していますが、栖雲寺など志田鋳物師が手掛けた銅鐘と宇津谷鋳物師が手掛けた鐘とは作風がまったく違うことから、志田と宇津谷にはそれぞれ鋳物師集団がおり、鎌倉時代末期から室町時代にかけて県内外で活躍していました。
 室町時代中期以降になると志田・宇津谷鋳物師に かわって宇津谷に住んでいた大工・石工(石切)・鍛冶職人らが台頭し、戦国時代・江戸時代を通じ武田氏の御朱印や権現様墨印によって専門的なことに従事する代わりに諸役免除の特権が与えられていました。『甲斐国誌』(文化11年(1814))によると甲州の在方職人153人のうち、宇津谷の20名が諸役免除を与えられていたと記述されています。

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