信玄堤

信玄堤の聖牛 現在の信玄堤

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 信玄堤は、武田信玄が命じ築堤させたといわれる堤防です。
 信玄堤ができる以前の釜無川は、信玄橋付近で御勅使川(前御勅使川)と合流したのち、甲府盆地のほぼ中央部(国道20号沿い)を流れ、甲府市小瀬付近で笛吹川と合流していたといわれます。(国道20号沿いには「~河原」という地名が多く点在していますが、その名残と考えられます。)
 当時、甲斐国を治めていた武田信玄は国内の治世に力を注ぎ、様々な事業を行っていますが、そのひとつとして治水事業が行われました。
 特に、甲府盆地中央部を流れていた釜無川は、大雨が降ると甲府盆地の大半が家屋や田畑が流されるなど甚大な被害にあっていたことから、強固な堤防を構築することが必要で、釜無川が甲府盆地へ流れ込む西端であった赤坂台地麓の地に堤防を構築するよう命じたといわれます。
 信玄堤は、弘治3年(1557)に完成したといわれていますが、完成当時の規模については定かではなく、信玄堤の規模について記述されている最も古い資料である『御本丸様書上』(貞享5年:1688)には「龍王村御川除の儀、土手三百五十間、是は竹御林にて御座候。龍王鼻と申岩より伊勢明神の前まで、長さ四百五十間横六間の石積出し、是は右竹御林並に本土手と引添へ申候。~」と記述があり、堤防の長さは350間(約650メートル:赤坂台地麓から信玄橋付近までの距離)で、本堤が直接水勢を受けることがないよう石積出しが構築されていました。
また、信玄は堤防の近くに人々を住まわせ堤防の普請を行わせたほか、近隣の村々にも普請や資材の供出を命じ、武田氏が滅んだ後も江戸時代を通じて信玄堤をはじめとして、釜無川流域の堤防施設の普請を人々に行わせていたようです。
(正月近くになると門松つくりのため堤防に生えている竹を切り出す人たちがいたようで、その見張りをさせたこともあるようです)
 ただし、竜王の地に堤防を築いても釜無川と御勅使川の合流地点であったことから、洪水時に堤防が押し流されてしまう可能性があるため、御勅使川の流れそのものを変更させるなどの工夫をした。

  1. 御勅使川が山から扇状地へ流れ込む場所に石積出しを設けて川の流れを一定方向へ向けさる(石積出し)。
  2. 扇状地中腹に圭角の堤防を築き御勅使川が増水したときにだけ御勅使川の旧河道にも流れるよう分水に水が流れるようにして大雨の際の水量を調整し(将棋頭)
  3. 台地によって南流してしまうため、約1キロにわたり竜岡台地を切り開き(堀切)
  4. 御勅使川と合流する手前の釜無川左岸に大きな石を置き水の勢いを削ぐ(十六石)
  5. 御勅使川と合流した釜無川の流れを赤坂台地西端の崖に向けさせ、水勢を再び弱めるとともに、直接信玄堤へ流れが向かわないようにした(高岩・赤岩)
 これにより、釜無川は信玄堤南端(信玄橋南側にある安楽寺付近)から甲府盆地へ流れ込むようになり、江戸時代前期には竜王地区と西八幡地区との境まで堤防が伸ばされ、かすみ橋付近(玉幡中学校北側)から甲府盆地南東へと流れるようになりました。
 その後も堤防は延長されていき、西八幡・玉川地区から中央市臼井阿原にかけて霞堤と呼ばれる不連続の堤防が設けられ江戸時代中期には現在とほぼ同じ流れになっていきました。
 最後に明治時代に行われた、堤防の大改修によって現在の姿になりました。
 「信玄堤」と呼ばれるようになったのは江戸時代以降のようで、文書などをみるとそれまでは「竜王川除」・「御川除」などと呼称されていました。江戸時代後期に編纂された「甲斐国誌」には『信玄堤』と記述があります。ことから江戸時代中期には『信玄堤』と呼称されるようになったようで、武田信玄の治世の功績を称え『信玄堤』と呼ばれるようになったようです。

 ※なお、近年、信玄堤の構築について、築堤に関する文書などの資料に乏しく、また発掘調査も実施されていないため研究者によって様々な見解があるようです。

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