無堰と竜地の大溜井

 楯無堰は江戸時代に造られた堰および水路で、徳島堰・朝穂堰とともに「甲斐の三堰」のひとつにあげられています。
 堰の名は「宗貞堰」、「立石堰」などとも呼ばれていましたが、双葉町史には『甲斐国誌』に宮ノ窪(韮崎市宮久保)付近の立石原という地名が転訛して「楯無原」と呼ばれ、水路がその地内を通っていたことから楯無堰と呼称されるようになったと記述されています。
 双葉地区の丘陵地(台地)を流れる河川は浸食によってできた深い谷間を流れているため、水の取り込みが困難で稲作など水を多く使用する耕作には適さない土地でした。
 江戸時代初期、摂津国(大阪府と兵庫県の一部)出身の浪人(一説には江戸の商人)野村宗貞(?~1682)が宇津谷村に隠棲していました。宗貞は、この地で生活していくなかで丘陵地帯の水不足が慢性的で耕作もままならないことを知り、堰の開発を計画し、現地調査の上、地元や周辺の有力者から資金を集め甲府藩に工事着工の請願をして、寛文6年(1666)堰の開削が始められました。
 まず、小笠原村岩根地内(北杜市明野町内)を流れる塩川をせき止め取入口としました。しかし、起伏の激しい地形(丘陵地帯)を横断させながら末端の竜地地内までの距離約17kmをわずか36メートルの高低差で水路を通さなければならず、工事に際しては高度な技術が必要とされました。
 工事着工から3年後には完成し(途中で甲府藩に引き継がれ完成したともいわれます)、この堰のおかけで丘陵地での石高が増加しました。
 楯無堰の完成により竜地まで水が行き渡るようになりましたが、塩川から取入れる水量には限度があり、丘陵地帯での耕作地の広がりによる樋口の新設や樋の破損などにより末端の竜地まで水が流れないことが度々ありました。 このため、竜地地区では農地が荒廃するところもでてきたため、甲府勤番役人に文化2年(1805)に楯無堰の末端部に広大な溜池を設けることになりました。
 この工事は地域の人々によって工事が進めることになり、農閑期に集中して工事が行われたため、20年以上の年月がかかり天保2年(1832)に竜地の大溜井が完成に至りました。

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